芸能人や政治家も住む、東京の“真の”高級住宅街はどこ?

2020年12月18日138,545

東京の高級住宅街というと、どんなエリアが思い浮かぶだろうか。田園調布、白金、松濤、広尾……間違ってはいないが、今現在一般的に高級住宅地だといわれている場所と、歴史的に高級住宅地として認められていた場所は異なることがある。

そして、政治家や芸能人・著名人は、後者の昔から良いといわれる本当の高級住宅街に住んでいることが多い。

今回は、東京の真の高級住宅街について、歴史をたどりながらみていこう。

東京都内の高級住宅街一覧(〜平成・令和)

まずは、今現在東京都内で高級住宅街として確立しているエリアを一覧で紹介する。「今現在」としているが、ここには歴史的背景があるエリアも多く含まれていて、住居をかまえる芸能人や政治家、有名企業の創業者、スポーツ選手などの著名人も多い。

千代田区の高級住宅街

千鳥ヶ淵のイメージ

番町

千代田区の番町は、旗本のうち将軍を直接警護する大番組の住所があったことから「番町」とよばれていた。明治時代には、高級官僚、軍人、華族、財界人らがこの街の住人の中核をなしており、有島武郎や藤田嗣治、滝廉太郎、菊池寛、島崎藤村などの文化人も多く住んでいる稀有なエリアであった。

「区立番町小学校」「九段小学校」など数少ない公立の名門小学校もあり、かつては「番町小、麹町中、日比谷高、東大」というのがエリートコースだった。

麹町

町名の由来は、町内に「小路(こうじ)」が多かったためという説と、幕府の麹御用をつとめた麹屋三四郎が住んでいたためという説がある。府中(ふちゅう)の国府(こくふ)を往来する国府街道の江戸における出入口であったため、つまりは国府路(こうじ)の町であったという説が有力である。

1878年11月の郡区町村編制法によって東京の市街地に15区が編制された際、麹町は四ツ谷・永田町・霞が関・日比谷・丸の内・大手町などともに麹町区となり、東京府庁や東京市役所が存在していたことで、東京15区の筆頭としてあつかわれた。

明治維新後に、武家屋敷から明治政府官僚の屋敷街となった。

紀尾井町

かつては番町と並ぶ「山の手」の一つである緑多き優雅な佇まいの住宅街だったが、現在はオフィスビルが目立つようになり、ホテル、大学、レストラン、議員宿舎などが大部分を占めるようになった。

現在、紀尾井町に住宅用の土地付き物件が売りに出されていることは稀になり、希少価値が高い地域となっている。

永田町

江戸城に近いことから加藤清正などの大名屋敷が建ち並ぶようになり、寛永年間(1624~1644年)から明治にかけて井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があった。関東大震災後は、北大路魯山人が星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とした。

国会議事堂が1936年に完成したあとは、政界の代名詞として使われるようになり、民家があった面影は現在ほとんどなくなっている。

九段

千代田区の九段は、江戸時代からの屋敷街であった格式ある街だ。9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷がつくられたことに由来しており、北の丸公園、桜の名所である千鳥ケ淵、靖国神社が存在している。

富士見

千代田区富士見の地名の由来は、地内にある富士見坂からきている。富士見坂の由来は富士山がよく見えたことによるが、現在では高層建造物が密集しており、富士見坂から富士山を見ることはできない。

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港区の高級住宅街

港区のイメージ

赤坂

地名の由来は、紀伊国坂と赤土が多い土壌にたくさんの坂があることの二説ある。江戸時代は元赤坂付近に町屋、武家屋敷がつくられ、大名屋敷や旗本屋敷があった。明治時代以降は官吏、軍人、富裕層が邸宅をもち、高級料亭や旅館も密集していた。

昭和に入り、欧米諸国の企業および大使館の駐在員が住むと同時に、銀座とならぶ高級繁華街となり、高級料亭やキャバレー、ナイトクラブ、ゴーゴークラブなどが多く集まった。

麻布

江戸時代初期までは農村や寺社の門前町だったが、江戸の人口増加・拡大につれ、武家屋敷が並ぶようになった。馬場が1729年に芝から麻布に移転後は十番馬場とよばれ馬市が栄えた。1859年にアメリカ公使館が善福寺におかれると、麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートがつくられ、東京でも有数の盛り場となった。

戦後、日比谷線の駅開通計画に反対運動が起こり路線は変更された。その結果、六本木駅周辺が大きく栄えることになり、長く商業的な停滞が続いた一方、アクセスの悪さゆえの他をよせつけないクローズドなポジティブイメージもあった。

2000年代に南北線・大江戸線の麻布十番駅が開通すると、麻布十番商店街もにぎわいをとり戻し始めることになった。東京を代表する高級住宅街として、芸能人・著名人・財界人などが多く住んでいる。

白金

「シロガネーゼ(白金に住む高級なイメージの女性のこと)」という言葉が確立されるほど、セレブな街として有名なのが白金だ。応永年間、大量の銀(しろかね)を保有し「白金長者」とよばれた柳下上総介がこの地を開いたことに由来して「白金」という地名がつけられた。

高級ブティックや飲食店が多数集まるプラチナ通りなどセレブイメージの強い白金だが、八百屋や魚屋など昔ながらの個人商店が立ち並ぶ商店街もあり下町情緒も残っている。

高輪

JR山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」の開業で注目される高輪。品川駅や五反田駅が徒歩圏内にあり、利便性の良さは抜群だ。現在は再開発のイメージも強い高輪エリアだが、江戸時代には江戸の玄関口としての役割を果たしていた。

高輪エリアには、「八ツ山」や「御殿山」など城南五山とよばれる古くからの邸宅街が存在している。泉岳寺や東禅寺など歴史ある寺社が多数集まる北側エリアには、旧高松宮邸や財界人の邸宅が明治時代以降立ち並び、現在も有名企業の会長などが多数住んでいることで有名だ。

三田

江戸時代には大名屋敷や旗本屋敷が多く建てられた。三田1丁目と三田5丁目の渋谷川沿いの低地には、住宅地・商店街が混在している。三田2丁目の高台には高級住宅街が広がり、三井倶楽部(旧三井邸)、オーストラリア大使館(旧蜂須賀侯爵邸跡地)がある。旧島原藩中屋敷には、慶應義塾大学の三田キャンパスもある。

渋谷区の高級住宅街

広尾のイメージ

松濤

最寄りが渋谷駅という優れた利便性でありながら、センター街や道玄坂など繁華街の喧騒からは一線を画した渋谷の奥座敷。

かつては徳川御三家のひとつ紀州徳川家の下屋敷が建てられ、代々名門の家系が住居をかまえてきた。今現在も、「一戸建て・一軒家」というより「お屋敷」という言葉があてはまるような数十億円規模の住宅がずらりと並び、政財界や有名老舗企業の創業者などが住んでいる。

広尾

繁華街がほとんどない閑静な住宅街がひろがる広尾。江戸時代には多くの武家屋敷が立ち並び、明治時代には武家屋敷の跡地に大使館が建てられていった。その流れから、現在も大使館が集まり異国情緒漂う落ち着いた街並みが広がる。

広尾周辺には名門教育施設も多く、慶應義塾幼稚舎や聖心女子大学、麻布学園(麻布中学校・高等学校)などから、皇后陛下をはじめ総理経験者など各界で活躍する著名人を多数輩出している。

恵比寿、代官山、中目黒、六本木、表参道、白金など都内屈指の人気エリアがどこも3キロ圏内という立地も魅力の一つだ。

世田谷区の高級住宅街

世田谷区の高級住宅街のイメージ

成城

1925年に移転した「成城学園」とともに発展した高級住宅街が世田谷区の成城エリアだ。数多くの名作を生み出してきた「東宝スタジオ」も成城の発展に大きく寄与し、黒澤明や三船敏郎など有名な映画監督や俳優をはじめ多くの著名人が近隣に大邸宅をかまえてきた。

「成城憲章」という協定が制定されるなど自然環境や景観の保全にも力を入れており、住人の意識の高さによって成城ブランドが守られている。

大田区の高級住宅街

田園調布

「西の芦屋、東の田園調布」と称されるほど、全国的に高級住宅街のイメージが定着している田園調布。駅を中心に並木道が放射状に広がる特徴的な街並みは、大正時代、田園都市株式会社によって、ヨーロッパの街並みを模して開発された。

田園調布ならではの景観とブランドは、建物の高さや最低敷地面積、まちづくりの規定などを細かく定めた「田園調布憲章」をもとに、住民の努力によって保たれている。

新宿区の高級住宅街

新宿区の高級住宅街のイメージ

市谷

江戸時代には加賀藩主前田家が屋敷をかまえており、明治時代以降も山手を代表する高級住宅街として発展した。同じく高級住宅街として知られ、夏目漱石や坪内逍遥など名だたる文豪が通ったといわれる老舗の名店が多く軒を連ねる神楽坂にも隣接している。

台東区の高級住宅街

上野桜木

台東区というと、下町のイメージが強いかもしれないが、台東区の高台に位置する上野桜木エリアは昔からの高級住宅街だ。徳川家の菩提寺である寛永寺には、墓所として6人の将軍が霊廟されている。

品川区(一部港区)の高級住宅街

城南五山

大正時代に入り、城南五山とよばれる以下の地域が、高台で価値の高いエリアだという新しい価値観が生まれた。

城南五山の位置

島津山

品川区東五反田1・3丁目付近の高台で、島津公邸があった。現在は清泉女子大学がある。

池田山

品川区東五反田4・5丁目付近の高台に位置する。名称は、備前岡山藩の池田家の下屋敷があったことにちなんでいる。

花房山

現在の品川区上大崎3丁目付近の高台に位置する。名称は、明治、大正期の外交官である花房義質の別邸があったことにちなんでいる。

御殿山

品川区北品川にあり高輪台地の最南端に位置する高台。徳川家康が建立したと伝えられる「品川御殿」があり、鷹狩の休息所として利用された。

八ツ山

現在の港区高輪3・4丁目付近の高台に位置する。岩崎家の別宅があった地域。

 

東京都内では、上記で紹介したエリア以外にも、近年交通機関が発達し、大手デベロッパーがさかんに宣伝することにより、郊外のニュータウンや東京の東側の湾岸地域などが注目されている。

湾岸エリアとして代表的なのは、品川、豊洲、有明などだ。武蔵小杉、新百合ヶ丘、あざみ野などはニュータウンではないが、2000年代中盤に入ってから注目度を増している地域である。

しかし、本物の芸を持つ役者・芸能人、代々続く政治家一家の人達などは、大々的に宣伝されるそのようなエリアに住むことはない。一流とよばれるホンモノの価値観をもつ人たちは、しっかりとした歴史的背景があり、昔から良い場所だとされているエリアに住みたいと考える人が多いのだ。

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歴史変遷からたどる!東京の真の高級住宅街

大名屋敷のイメージ

東京の高級住宅街というと一般的にイメージされるエリアはあるものの、なぜその地域なのか、どんな歴史があったのか、そういった背景は意外と知られていない。

ここからは、江戸時代から現在に至るまでの歴史変遷に沿って住宅地の変化を考察していくことにより、東京のなかで本当の高級住宅街はどこになるのかみていこう。

江戸時代の高級住宅街(大名屋敷)

江戸時代は士農工商の身分が厳格だったこともあり、都心部の土地も身分によって居住地域がわけられていた。その頃は、江戸城(皇居)の周りに大名屋敷があり、大名が居住する「上屋敷」、隠居した大名や世継ぎなどが住む「中屋敷」、規模の大きい別邸として庭園などが設けられていた「下屋敷」にわかれていたのだ。

大名屋敷は幕府から藩主となる武家に与えられるもので、元文3年(1738年)の規定では、1〜2万石の大名で2,500坪、5〜6万石で5,000坪、10〜15万石で7,000坪となっていた。

加賀100万石の前田家は、10万坪以上の屋敷を与えられており、東京大学の本郷キャンパスの敷地全体が上屋敷だったのだ。いかに広大な敷地を有していたかが簡単に想像できるだろう。

参勤交代により、多くの大名は年の半分を江戸で過ごしていたため、石高に応じて広大な屋敷が必要だったのだ。これらの大名屋敷は、現在の地図でいうと下記のエリアに位置している。

上屋敷、中屋敷

  • 千代田区の丸の内、霞が関、紀尾井町など
  • 港区の新橋、赤坂、三田など

下屋敷

  • 新宿区の一部(新宿御苑、市ヶ谷、戸山など)
  • 渋谷区の一部(代々木など)
  • 港区の一部(六本木、麻布、白金台、高輪など)
  • 中央区の一部(築地など)

これらのエリアの周辺に、旗本などの武家屋敷があったのだ。現代の地図で説明すると、山手線の内側が武家の居住地となっていたが、その中でも渋谷区、目黒区、品川区は、江戸時代には田舎のほうに位置づけられており、江戸時代はその多くが田畑だった。これが、明治時代になると様相が大きく変わってくる。

明治~大正時代の高級住宅街

明治時代になっても、皇居を中心として街づくりが行われていたが、いわゆる「山の手」といわれた高台がより好まれるようになり、東京の東側は下町とよばれ職人などが住むようになった。

山の手と下町の境は、武蔵野台地の東端だ。わかりやすく説明すると、山手線の日暮里~東京間あたりが境となって、西側が山の手、東側が下町となっていた。

これは、外国の文化が流れてきた影響が大きく、彼らが高台に価値をおく性質のため、明治維新後はより高台のエリアが好まれるようになったのだ。

明治時代になって大名家が華族となり、町の様相も大きく変わることになった。大名屋敷がかつてあった武蔵野台地の東端に位置するエリアが、「山の手の中の山の手」とよばれる高級住宅地となったのだ。

現代の町名に置き換えると、以下のエリアが当時から高級住宅地とよばれた場所にあたる。

山の手の中の山の手とよばれるエリア

  • 千代田区の番町、麹町、紀尾井町、永田町、平河町、九段、富士見、神田駿河台などの皇居周辺
  • 千代田区の赤坂、麻布、六本木、三田
  • 新宿区の市ヶ谷、信濃町
  • 台東区の上野桜木

また、城南五山とよばれた、池田山・御殿山・島津山・花房山・八つ山の高台も、上記エリアと同等レベルといわれるようになった。これらのエリアは高台に位置しているだけでなく、地盤も強固で安全な地域だったこともあり好まれたのだ。

山の手側に位置していても、渋谷駅や恵比寿駅の周辺は渋谷川沿いの低地に位置している。同様に、代官山は高位に位置しているが、隣の中目黒は目黒川沿いの低地なので、かつてはあまり発展していなかった。

昭和時代の高級住宅街

大正から昭和に変わると、人口増による郊外化が進み、これまで住宅地があったエリアのさらに西のほうにも住宅開発が進んでいった。東京信託により、世田谷区桜新町・深沢が計画的に開発され、東京急行電鉄の前身となる田園調布株式会社が洗足と田園調布を開発した。

ほかにも、成城学園が手がけた成城エリアや、玉川村が開発した等々力、自由が丘、青葉台などのエリアが新たに開発され、のちに高級住宅街として評価されることとなった。江戸時代には下渋谷村・三田村とよばれ、江戸郊外の下屋敷が集まるエリアとして存在していた渋谷・恵比寿も、昭和に入り大きく発展した。

また、庶民の町屋や雑木林などが広がっていた表参道・青山近辺は、明治時代は中流の住宅地だった。しかし、昭和に入ってから高級住宅街となり、平成の現在までその価値を維持し続けている。

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歴史をたどれば、東京の本当の高級住宅街がみえてくる

東京の高級住宅街について、歴史をまじえて紹介してきた。現在高級住宅街として知られている場所も、歴史的にみると昔は発展していなかったエリアもじつは多数あるのだ。

もちろん、住む場所に対する考え方は人それぞれ違う。職場や親類などとの物理的な距離や、繁華街の近くに住みたいのか、自然豊かな地域に住みたいのかなどの個人の趣向により、どこのエリアがその人にとってベストな居住地なのかは異なる

あたりまえだが、本人が良いと思える場所が、ほかの大勢の人にとってベストな場所でないこともあるだろう。それは芸能人や政治家も同じである。

紹介した見解はあくまで一般論であるが、地域ごとの歴史的な変遷や背景、本物のエスタブリッシュメントが東京の各エリアをどのように考えているのかを知ることにより、自身の住居エリア選びの参考にしてもらえればと思う。

この記事の監修者

不動産投資ユニバーシティ代表 志村義明
大学を卒業後、大手シンクタンクに入社。リテール金融ビジネス向けの業務に従事。愛知、埼玉、山梨等で不動産賃貸業を展開し、会社員時代に合計100室超を購入。高利回り物件の投資を得意とし、保有物件の平均利回りは16%超にのぼる。現在は不動産会社(宅地建物取引業者 東京都知事(2)第98838号)を経営。
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